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【連続ブログ第2回】

2020.07.08

第二回 研究室をどうやって作っていくか?

私は医学部卒業後、大学院(東大)3年―スウェーデン留学2年―東大の助手3年―群馬大の講師・助教授3年弱で、30歳代半ばの頃にいきなり生理研で自分の研究室を持つことになりました。群馬大からパソコン1台を携えて岡崎に来たことをよく覚えています。その頃には大学院の出身ラボはなくなっていたので後輩がいるわけではありません。従って色々な先生方にお願いして助手になってくれる人を探しました。創設時のメンバーの一人は丹治順先生(東北大)の研究室の出身、二人は阪大の村上富士夫先生の研究室の出身でした。私が若い頃はまだ、国内にはいろいろな「流派」の研究室があり、それらの教授同士は大概仲が悪く(?)、それぞれの出身者が混じりあうことは余りありませんでした。ただ、私はそんなことは言ってられません。そして、私は自分の能力には限界があるので、割り切って自分にできないこと、自分が知らないことを知っていて自分に教えてくれる人を雇うことにしました。そしてその後も研究室のスタッフ、ポスドクは本当に多様な出自の人達に来てもらっています。一方、生理研の研究室に入って来る大学院生も数は多くはなかったですが、全国の本当に様々な大学・学部出身の、色々なバックグランドを持った人たちが入学して来ました。学部学生がいない研究所でしたが、大学院課程があって良かったです。また、生理研では内部昇進がないので、スタッフも業績を出させてはどんどん外部に昇進させていかなくてはいけません。大学院生も修了したら留学に行かせなくてはいけません。そういう、良い言葉で言えば「流動性が高い」ということになるのかも知れませんが、悪く言うといろいろな言い方があるのかもしれません。東大や京大といった有名大学で、大学院生がそれなりの数入ってきて、そういう人たちに自分のサイエンスを一からたたき込んで育てていき、そういう人たちでラボを固めて回していくというやり方を取ること(私が在籍していた東大の脳研は少人数でしたが、まさしくそういうところでしたが)は結局、これまでできていません。

例えば私の研究室ではサルの慢性実験をやっていますが、色々な研究室の流儀を習ってきた人たちがいるので、モンキーチェアの仕様もバラバラ。サルの訓練の仕方もバラバラです。そういうスタッフやポスドクとそれぞれとよく話をして、私がやりたいこと、「生理学者」としての私の考え方は共有してもらいつつ、本人がやりやすいように研究を進めてもらうしかありません。これは伝統的な日本の研究室のラボ運営の仕方とは大分異なるので、新しくスタッフやポスドクで参加した人は皆、最初は相当に戸惑いを感じていたかも知れません。ただ一方で、この20年余りの間に、国内での研究が、大学主体から、理研、生理研、OIST、NCNP、その他のいわゆる多様な「研究所」で行われる傾向がさらに強くなり、どこでも流動的でかつ国際的なラボ運営、そして融合的な研究の推進が求められるようになってきた今日では、多様なバックグランドを有する人達と一緒に研究をするということが標準になってきているのではないかと思います。そういう中で、メンバーの多様性と自分の discipline を貫くこととのバランスをどうやって取っていくかということが、それぞれの研究室を運営する PI にとって、より中心的な課題になっているではないかと思います。そういう仕事の仕方をこれまで25年くらいやってきましたが、今でも日々学ぶことばかりで、悩みは尽きないというのが正直なところです。多分永遠にそういうサイクルは続くのでしょう。そういう中で最初の人材育成をする大学はとても大事だという思いは強く持って来ました。4年前から大学に移り、次第に大学院生の数も増えてきました。今度は研究者を送り出す側の立場になったわけで、どこでも通用するような基本をしっかり身に着けた逞しい研究者の卵の育成に尽力したいと思うこの頃です。(伊佐)

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